えらくダラダラと長くなったので本編はいかに続きます。まぁ、どうでもいい話をグダグダと考えてみました。







 「片山容疑者はお前の仲間じゃないのか?」
私はしばらく黙りこんでしまった。これは知り合いからの電話での一言。なんとなくバカ話をしていた時に出てきた言葉で、さて、この回答をどうするべきかで頭を抱えてしまったのだ。

 彼は俗にいう、DQN、である。もういい年なのに勢いはその頃のままなのだから頼もしいというのかなんというのか。彼にとって仲間はとは代えがたいものであって、何があっても守るべきものなのだ。彼は私がヲタクであることを知っている。故に、ヲタクであろう片山容疑者は間接的でありながらも仲間なのである。

 片山容疑者がヲタクかどうかは置いておくとしよう。そして遠隔操作ウィルス事件の主犯なのかという話も棚上げして貰いたい。ここで考えたいのは、

おれらの一人のヲタクが何かをしでかした場合、果たしてそいつを守るのだろうか

と、いうこと。私が思うに、まず守らないだろう。そしてそういってきた彼にしてくればそうなった場合、守るべきものなのだ。この違いはなんだろう? これが私の黙りこんだ原因なのだ。


 で、私と彼で違うのはなぜだろう、と電話が終わった後もんもんと考え続けた。少なくとも私は、ヲタクは犯罪者である、という決め付けには全力で噛み付く。好きなものが世間がいうヲタクに属しているだけでキモいや理解できない、頭がイッている、というのならまだ理解はできるぐらいにはおとなになったつもりだ。しかし、それが反社会的なものであるというのはやっぱり理解できないし、納得出来ない。これはヲタクをDQNに変えた場合でも同じだろう。

 問題は内部の人が何かしらしでかしてしまった時。きっと彼はしでかした人を守るのだろう。私は冷めた目で見ているのだろう。これはもちろん、距離感の問題があるのでそこはわかってもらいたい。私だって親友だったら守ろうとするし、それは当然だと思う。ここで問題にしたいのは、その距離感が彼はものすごく広いのだ。いや、私が狭い可能性もある。それを調べるためにはしっかりとしたものさしが必要だが、ものさしはきっと見当たらないだろう。ひとりひとり違うだろうし、きっと属している括り(あえてコミュニティとはいわない)によっても変わってくるのだろう。そして、属している括りはものすごく影響するものだと思う。

 では、簡単な一例を。今となってはその昔になるでしょうが、ボカロ界隈でトレス事件というのがありました。2010年の夏ごろの話。magnetという曲で使われていた絵がトレスでしかも商業用CDでも使われていていたものだから祭状態に、ということです(※)。ここでこの界隈が起こしたことは、制作者への批判、でした。彼にとっては信じられないことでしょう。だって、制作者は同じ界隈から出てきた成功者なのですから評価こそされど批判などされるはずないと思うはずです。でも実際は違っていた。どうしてこうなったのでしょうね?

 正直、私もよくわかりません。ただ、トレスということが悪である、という共通認識があったのかと。重要なのは後ろの部分、悪である、というところ。悪であるから、批判する。では、おれらにとっての悪とはなんだろうか。

 それは、遊び場を乱したり壊したりするもの、なのではないか。このトレス事件も、

トレス→パクリ→そのことに対して外から強烈な批判がくる→遊び場が荒らされ崩壊

と、いう方程式が成り立ったのではないだろうか。故に外からの強烈な批判を回避するために自重能力がおこってしまったと考える。つまり、おれらは遊び場の維持を第一に考えて行動しているので、彼のような仲間という意識が出てくるとどこか引っかかってしまうのではないだろうか。

 しかしこう考えるとどうも皮肉にしか思えない。なぜなら私が最も嫌っている村意識にひどく似ているからだ。実に日本人らしいともいえなくはない。本当に、笑えない。


※:「Just Be Friends」「magnet」の絵師で有名な『湯呑P(ゆのみ)』氏が有料や改変禁止写真素材を無断コピペ/トリミング/加工
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